The New Hippies - ザ・ニュー・ヒッピーズ -

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『アラフィフ』 - 両親の死との向き合い方。

おはようございます、アラフィフのRiekoです。

大好きだった母が他界して8年、父が母の元へ行って10日。

今でも深く深呼吸して、目を閉じ、上を向くことが一日に数回あります。

父の死は、本人にとっての一番いい形で、母の不在に廃人の様に生きていた父にとって願っていた事だったと思うので、二人の再会を感じる残された私たちとしても母の時ほど寂しさと苦しさはありませんが、やはり時折“もう会えない”という事実にとてつもない空虚感と哀しみに襲われます。

それでも、では誰の為に、元気に笑顔でハツラツと過ごすかと言うと、目の前にいる一番大切な人達の為です。夫と子供達。

 

14歳の時に海外での事故で突然父親を亡くしてしまった主人はずっと心に傷を負ったままです。彼が一番苦しかった事は、母親が泣き続けた事だといつも言っていました。私は母を亡くすまで彼の気持ちが全く分かりませんでしたが、好きで好きで仕方なかった母を心の準備もないままに亡くした時に初めて彼の気持ちが理解できました。

それから毎日、一日数秒でも、できるだけいつも通りにすること、笑う努力をすること、極力子供たちの前で泣かないこと、にしました。5年程毎日こみ上げる悲しさに苦しみましたが、時と共に母を思い出しても泣くことはなくなりました。

父は母の死以来、廃人の様に生きていました。いつでも母の元へ行きたかったのでしょうが、一人っ子の父の母が生きている限り死ぬことはできなかったのでしょう。祖母が104歳で安らかな死を迎えてから1年半後の他界でした。

 

父は生前、義父の会社の後を継ぎ、年商30億まで成長させましたが、バブルの崩壊と共に売り上げが減少し、次の事業で成功したものの、負債を全部自分が背負い、死ぬまで誰にも迷惑をかけずに一人で全てを担っていました。

 

偉大な父も70歳後半になると身体の衰えに苦しみ、不安で眠れない日々を過ごしていたように感じます。最期は毎日の晩酌を終え、気持ちよく大好きなお風呂に入り、きっと母がお迎えに来たのでしょう。

 

 私が最期に会い、父とたわいもない会話をし、私も本人もまさか“これが最期”とは思いもしていませんでした。

 

父は病院へ行くことを何より恐れていました。薬を飲み続けなきゃいけないことや、手術をして痛みに苦しみながら死を迎える事を一番怖がっていました。病院に行っていたらもう少し長生きできたかもしれませんが、それは父が望む死ではありませんでしたから、自然に任せて死を迎えれた父は幸せだったと思います。

 

母は、父の腕の中で、愛する人たちに見守られて死を迎えました。そして死後ずっと父を側で見守り続けていたと思います。

 

両親の死には後から考えると、色々と不思議な事がありました。

 

無宗教で、霊などを信じているわけではありませんが、それでも不思議なことがたくさんありました。死期というのは何か特別な波動があるのではないでしょうか。私たちの目には見えないものが存在する気もします。

 

アラフィフ、50歳辺りって若くもないけれど、年寄でもありません。知恵と経験が豊富で、生き方もうまくなっています。私たち夫婦はこれからの3年、5年、10年が楽しみです。遅咲きでも良かったと思っています。子供達も大きくなった今、これからを今までで一番いい人生にしたいです。

 

父と母が二人で手をつないで天国へ行き、苦しみからも悲しみからも不安からも解放されていて、これからは天国から、私たちを見守ってくれますように。

 

 by Rieko

 

 

 #アラフィフ #50歳からの生き方 #両親の死 #父の死 #母の死